略・年譜1855年(安政2年)9月26日
小村寿太郎は、未だ現代的な外交上のルールも確立していない江戸時代末期の1855年に、現在の宮崎県日南市飫肥(おび)に誕生しています。小村家は飫肥藩の禄高18石の下級武士で、父は”町別当”という庄屋さん的(藩の情報収集役・物販)な役職を担っていました。小村寿太郎の生涯を貫いた人生訓は「人はいかなる時も正直たれ。」ということでした。生涯にわたりその「誠」の精神を基本に、外交官としての職責を果たし、日本に平和をもたらされました。欧米諸国の産業革命の真っただ中、しかも植民地政策の横行している極めて困難な時代に、死の直前まで我が身を忘れ国家に尽くし、56歳という短い人生を駆け抜けられました。
略・年譜1861年(文久元年)6歳
略・年譜1869年(明治2年)14歳
優秀な成績で振徳堂を卒業した小村さんは、その後の進路に迷いました。長男であったことで、父の跡継ぎになるか或いは儒学者としての道を更に究めるか悩んでいました。それを導いたのが、振徳堂の先生であった小倉処平でした。先生として小村さんの才能を高く評価していた小倉処平が、他の卒業生も含め長崎で英語を学ぶよう藩費留学生として藩主に進言します。その時には父親の勧めもあって、長崎へ英語の語学勉強に旅立ちます。小村さん若干14歳、1869年(明治2年)のことです。ところが、長崎に到着はしましたが英語学校はなくなっており、先生のフルベッキさんがそこにはいません。先生は大学南校(現・東京大学)に招聘されたとの事でした。そこで、小村さんは参考書を購入し、外人を相手に現在で言うところのスピードラーニング方式で独自に勉強をしたと言われています。英語の語学は難なくクリアーという事でしょうか、、、。
略・年譜1870年(明治3年)15歳
大学南高・現東京大学へ貢進生入学。小倉処平は、文部科学省の進める大学南校の「貢進生」の枠を藩の規模に応じて入学できるように進言し、小村さんも入学します。更に、小村さんは「貢進生」の中でも優秀な50人に選ばれ官費学生として「学費免除学生」となります。
その後は勉学に励み、ここでも小村さんは小倉処平の期待に違わず優秀な成績で、同期生との切磋琢磨を繰り広げ卒業することになります。
略・年譜1875年(明治8年)20歳
略・年譜1880年(明治13年)25歳
略・年譜1881年(明治14年)26歳
朝比奈マチさんと結婚、その後、英語に堪能なこと・法律の勉強をしていることにより、外務省に移動となる。
略・年譜1884年(明治17年)29歳
略・年譜1893年(明治26年)38歳
略・年譜1894年(明治27年)39歳
日清戦争は、朝鮮の支配をめぐっての日清間の戦争でした。朝鮮に庚午農民紛争が起こると、朝鮮政府が清国政府に出兵を請います。日本もそれに呼応して出兵し、1894年7月15日豊島沖で戦端を開き、平壌・大連・旅順などで勝利を続け、1895年3月までに遼東半島を制圧し、その後、1895年4月には下関講和条約が締結されました。
当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にありました。李氏朝鮮の実態は、長期に渡る両班制度が国の発展を阻害し、独立国としての体をなしておらず、国民は疲弊の極みにありました。
1895年、講和条約後(明治28年)にフランス、ドイツ、ロシアによる下関条約の干渉(三国干渉)が強いられ、遼東半島還付条約を締結している。後に、ロシアの南下政策の継続要因として残ることとなった。
小村さんは、清国に対しては陸奥宗光の指示を忠実に履行して行動したということです。また戦争中は、民生長官として現地に派遣され、民心の安定を図ったと言われています。*寸暇を惜しんで大量の洋書を読み、清国の国内視察も忘れず、短時間での情報収集にあたった。得た結論が、清国は「眠れる獅子」ではなく、清国軍は日本軍の相手ではない、、。
略・年譜1896年(明治29年)41歳
略・年譜1898年(明治31年)43歳
1898年(明治31年)小村さんは駐米公使に任命されました。9月13日任命された小村さんは、10月22日に日本を出発し11月9日サンフランシスコに到着、ワシントンD.Cに着任したのは11月20日でした。小村さんにとっては18年ぶりのアメリカ合衆国でした。当時の日米間には大きな懸案はないとされていました。小村さんが熱心に取り組まれたのはフランス語の学習であったようです。読書に没頭されアメリカ史にかかわる書籍は大量に読み込まれました。基本的に社交を好まない小村さんは、人脈を積極的に広げるというようなことはしなかった。
略・年譜1900年(明治33年)45歳
・1900年(明治33年)2月23日、小村さんは駐米公使から、駐露公使へと異動となる。
・1900年(明治33年)10月23日、小村さんは今度は駐清公使への転任を命ぜられる。
アメリカでの滞在1年余の後、今度は露国の公使として5月24日着任する。小村さんはここでもロシア語の学習に努めるが、清国では山東省で始まった義和団の活動が、華北一帯に拡大して危機的状況が一層深刻さを増していた。6月には日本の清国公使館書記官が殺害される事件もあり、対応に緊急性が求められた。結果として、小村さんは、1900年10月23日に、駐露公使から駐清公使への異動となりました。露国公使としての滞在は、僅か8ヶ月の短い期間でした。
略・年譜1900年(明治33年)45歳
小村さんは11月8日にロシアを離れ、ロンドン、ニューヨーク、バンクーバーを経て12月19日に帰国した。この日をもって駐清公使に就任し、12月27日に日本を出発して1901年1月6日に北京に着任している。小村さんは、義和団事件の講和会議全権として事後処理にあたった。10ヶ国以上がかかわる国際会議での個別交渉は不可能と判断した。その結果、英独仏の公使とともに清国の財源調査の委員となり、賠償額交渉の進展に寄与した。ここでの小村駐清公使の活躍はめざましく、「日本外交に小村あり」との声が世界にささやかれるようになった。1901年9月7日、清国及び11ヶ国との間でようやく北京議定書(辛丑条約)が調印され、義和団戦争の戦後処理は本議定書によりなされることとなった。講和会議の交渉中の6月、小村さんは日本から思わぬ知らせを受けていた。それは、新首相の桂太郎からの外務大臣就任要請であった、、。
略・年譜1901年(明治34年)46歳
小村さんは、第一次桂内閣の外務大臣として就任することとなった。ただ、小村さんは北京議定書調印のため清国を離れることが出来なかったため、その間は曾禰荒助蔵相が外相を兼ねた。
略・年譜1902年(明治35年)47歳
小村さんは日英同盟の交渉開始を林公使に訓令し、交渉の為の正式な権限を与えた。それは、清国での北京議定書調印を優先する必要があったためでした。1901年11月に入り、イギリス側から具体的な同盟条約の草案が提示されたが、日露協商と日英同盟の二股交渉への警告があって、日英同盟を優先とすることになった。小村さんの日英同盟のメリットとして、①恒久的な東洋平和、②清国における門戸開放、③韓国問題の解決、④財政上の便益、⑤通商上の利益、⑥防衛負担の軽減などを挙げていた。交渉も1902年に入ると、双方の国で決定した閣議決定修正案で、1月30日に日英同盟条約がロンドンで調印されたのです。日英同盟成立に、当時の日本国民は喜んだと言われています、、、。
略・年譜1904年(明治37年)49歳
1904年(2月10日)、ロシアに対して宣戦布告が発せられ日露戦争となる。小村さんは日本はやむなく戦争に突入したことを訴えるべく、ロシアとの交渉経緯を公表した。各新聞等メディアでの報道により、国民の一致団結を呼びかけている。各地で戦火を交えながら、韓国の保護国化、日英同盟の一層の強化を目指した(戦時外交)。1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となり、アメリカのルーズベルト大統領に日露間の講話を斡旋するよう申し入れている。戦争は、日露両国ともそれぞれに戦争継続の余力もなく、争いを終結する時期でもあった。講和会議は1905年8月10日に開始され、約1か月の交渉を経て9月5日にポーツマス条約として調印される。小村さんは調印の翌日の9月6日、ニューヨークで体調を崩し、治療を施したうえで、3週間後の9月27日にアメリカを発ち、バンクーバーを経由して日本に帰国している。(ポーツマス条約の締結)
略・年譜1906年(明治39年)51歳
略・年譜1908年(明治41年)53歳
略・年譜1910年(明治43年)55歳
略・年譜1911年(明治44年)56歳
小村さんは、頭脳明晰な人であったようです。他人にそのことを前面に出すことは無かったように感じられました。
それは、組織の中で仕事をする場合、自身が率先して手本を示しています。部下の方々は、そこに至るまでに勉強をします。が、たとえ失敗が生じた場合でも決して非難はしていません。次の仕事で失敗を繰りかえさないことを求めています。外交の場で生じた結果はあえて追及せず、自身の責任とされています。外交に関するあらゆることに対応できるよう、徹底して事前勉強をされた事には、驚愕の念が残りました。
また、生涯を通じた貧乏生活には、ものともされていません。その様な中にあっても、自身を導いてくれた小倉処平の遺児2名の面倒までも看ています。生涯に渡り金銭には無頓着で、恵まれない生活で、財を成すことはありませんでした。寸暇を惜しんで関係する本を読み、相手国の事情を理解したうえで外交官としての交渉力を最後まで発揮されました。
体躯は小さかったが大きな人物でした、、、。
中公新書刊行書籍「小村寿太郎 – 近代日本外交の体現者」(新書2141)より転載